キリスト教の基本教理


【教理のポイント】

罪の意識
人間は罪を伴って生存している。自己の欲求や願望はもちろん個人存在そのものが対立や争いの原因となる。人間は本質的に不完全である。そのことを自覚しなければならない。

信仰による義
その解決を律法に求めるのではなく主イエス・キリストに対する信仰に求める。イエスの恵み、十字架による購いにその救いを求める。

洗礼(バプテスマ)を受け、主イエス・キリストを受け入れることによって罪を洗い清める。

ただしそれですべての罪が赦されるというわけではない。生存の必然として罪は伴う。したがってイエスの前において十字架の前において常に謙遜であり悔い改める思いを持ち続けなければならない。信仰は生涯を通じて実践していくものである。また信仰の深まりによって律法も守れるようになるのである。


【教理の全体】

処女降誕、復活などの様々な奇跡、天使と悪魔、天国と地獄、三位一体論の矛盾、千年王国の預言など。

これらの教理は上から降りてきたものであり神から与えられたものであり人間的な価値観ではそれ自体とても不自然なものである。そもそも神とは人間の判断基準を超越したものである。それらを理解しようとするよりも信じることのほうが重要である。主イエス・キリストを信じることがすべてである。

人間の能力には限界がある。それは社会の矛盾を、もしくは自分自身の現実を正しくとらえることができるならば明らかである。罪人であることを認め神を受け入れることはとても大切なことである。

本当に神を受け入れるには知性的(理性的)判断を超越した何等かの直接(回心・新生)体験が必要と思われる。ただしそれには非常に厳しい試練(逆境)が必要と思われる。





キリスト教の教えは一見、単純に思える。しかしキリスト教は旧約聖書のユダヤ教の教えと一体であり、思想というつながりにおいてはギリシャ哲学とも一体である。さらにそういった西洋思想の流れから生じてきた自然科学の価値観も含めてとらえていく必要がある。その中からキリスト教だけを取り上げて何等かの解答を得ようとすることには無理がある。キリスト教は西洋思想という大きなカテゴリーの一部としてとらえなければならない。

聖書の内容のすべてが文献学的にもその価値を認められているというわけではない。認められているのはその中の一部にすぎない。そこでその部分だけを理解すればいいとも思えるのだが牧師(先生)によるとそれは非常にラジカル(急進的)な考えであるという。聖書はそれ自体が神から与えられた神の賜物であり、その一説一語を神の御言葉として大切に学んでいかなければならない。要点だけをまとめればよいというものではないということなのである。

聖書には神の絶対啓示に対する絶対服従、律法(罪)に対する報い(罰)といった内容が非常に厳格に説かれているが、それもまた神の一様相なのだと思われる。

神は理解しようとして理解できるというものではない。神をとらえようとする思い(分析)はむしろその本質的理解を妨げてしまう。

神は個(三位)であり且つ全(一体)である。
神は律法であり且つ信仰である。
神は知性であり且つ知性では判断できないものである。

(たとえそれが矛盾であったとしても)それ以上の結論を求める必要はないのだと思う。
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