メタ哲

哲学とは何か。己の思考(知)を用いて、世界の真実らしさ・本当らしさを問うこと。世界とは。自己とは。自己と世界、自己と他者との関係とは。その解明・解釈を試みる行為。哲学とは自身の思考(知)と全力で対峙し、その思考(知)の全責任を自らで負う行為。これが大前提。ならば、その真実・本当らしさとは何か。何らかの真実らしさやら本当らしさやらを追い求めれば形而上学の混沌(泥沼)に陥る。結局は何も分からない。答えの出ない思考の迷宮。試行の錯誤(トライアル&エラー)。ソクラテス、曰く何と言った?「 無知の知。」 最初から結論は提示されている。先人の智慧。先達の英知。

哲学とは存在論である。否、哲学はただ漠然と存在を問うのではなく存在の理由(生の意味)を問うから存在論というよりも意味・価値論である。否否、我々は(能動的に)意味付や価値観を問う以前に既に(受動的に)生かされている。その生かされている事実そのものを問うことこそが存在論の本質問題と言えるのだが、その地点(ゼロポイント)に立てば「実存は本質に先立つ。道具として割り切れ。」と切り返されてしまう。確かに一理ある。

そもそも存在(の原因)論はその発想自体が既に形而上学(超越論)である。現実(現象)に対する理知性・論理性。純粋観察者の立場としての認識論。しかし人が生きていく上において只々物事を無色透明に認識するのみとか、Mr.スポックのような純粋論理人間とか、そういった想定(前提)自体が甚だ非現実的であると言わざるを得ない。人は快不快や敵味方を問う。意味や価値を問う。大小優劣、美醜清濁、正邪善悪を問う。なぜそのように問うのか(問わざるを得ないのか)を問う。取捨選択の判断。二者択一の決断。最低限度の生活環境(衣食住)の確保、それだけでも行動せざるを得ない。つまり純粋存在者のような中立的な立場は実存において破綻する。よって実践論としての倫理学が必要となる。(倫理もまた破綻する?)

哲学とはどこまでも観念論である。具体的な人生を設計する前段階のイメージ(理想像・イデア)を形成していくものである。否、そのような抽象的なものではない。哲学は自己と世界の関係性を、その真実を、どこまでも力強く探求し続けるであろう。人は本質的に形而上学的存在なのだ。不満足なソクラテスであれ!ということなのか。

転じて「実存と行為」に基づく生成と活動の哲学。実践(応用)哲学の再構築。政治・経済・社会学。論理学。科学。更には自己啓発・人生哲学。もはやこれでは哲学とは言い難い代物である?

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【哲学】

①世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが,次第に個別諸科学が独立し,通常これらと区別される。存在論(形而上学),認識論(論理学),実践論(倫理学),感性論(美学)などの部門をもつ。

②自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。「社長の経営術には一つの━がある」〔西周にしあまねの造語。初め英語philosophyの訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。西周「百学連環」(1870~71年)にある。philosophyはギリシャ語philosophia(知恵への愛・希求の意)に由来〕

『大辞林 第三版』


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