戯言(たわごと)

・ 唯心と唯物

『一切は思考の解釈(現象化)である。自己・自身の創作物(内的投影)である。受動性にも能動性にも、いずれにも普遍的な目的や意味など存在しない。ただ単に偶然の所産である。否、人間の人間による人間のための意味付・価値観である。形而上学など稚拙な妄想、未熟な意志の露呈である。その結論から逃げてはいけない。その結論を受容し得る勇者のみが「神」という名の幻想を断ち切り、真の「人」たる独立と自由を勝ち取ることができる。』

『思考は(能動的)創造者である以前に(受動的)被造物である。(それを踏まえない)超越的存在としての思考は(それ自体が)形而上学(抽象論)である。』

論理的可能性の全提示。これが哲学の基本的立場である。如何なる論理的可能性も否定されるべきではない。またその真偽を問い詰めるような不毛な論争に対しても必要以上に関わるべきではない。より以上に大切なこと。それはその見解(結論)をもって「如何に生きるか」である。目前の現実(実存)に立ち返る。日々の生活(行為)に立脚する。これがブッダ(全き人・尊き人)の説かれた最高の要点である。

(仮に偶然性を容認した上で) 誤解を恐れずに言えば、産まれ死ぬことも生きる(活きる)ことも、それ自体は単なる自然現象(事実)でしかない。そこに何らかの価値・意味を付加することは、あくまで人間の側の要請(後付)である。仮に思考(自我意識・心)そのものも単なる進化論の産物にすぎないのだとすれば、世界は正に偶然の集大成でしかない。論理的整合性?どうとでも言えてしまう。「世界は3分前に創造された。そこに内在される歴史(記憶)をも含めて。」 表現の自由。自由には責任が伴う。本当のこと?真実らしさ? 最後は個人の信条・信念・思い込み? その程度の問題なのか?それでいいのか?もう止めよ。逆に愚かしい。

唯心的に捉えれば全ては解釈? 唯物的に捉えれば物証を無視した見解は抽象論? 両側面・両性質の顕れとして捉えれば心物同体・表裏一体論? 心であり且つ物である? 周波数(微細⇔粗雑)?の差異による段階的な形態変化(心⇔物)である?

万象の一切が無常であるという見解。そこではもはや自然(受動性)と社会(能動性)を区別しない。色(現象性)と空(超越性)を区別しない。心(精神性)と物(身体性)を区別しない。一切の全ては神(真実)そのもの。一元的理解が必要。しかし分別的理解もまた必要。矛盾(対立)が認識されるが故に縁起(相依)が成立する。(構築する)現象性が認識されるが故に(否定される)幻想性が成立する。両方とも必要。つまり中道。


・ 偶然と必然

『人(知的生命体)としての存在の理由。淘汰・変異・適応・進化?悠久の時空が育んだ偶然という名の奇跡?⇔人が故に、人が為に、この世界(宇宙)は存在する?人無き世界など論ずるに値しない?(強い人間原理)』

『現象とは常に多様な並行的可能性・確率的選択肢の一顕現にすぎない?⇔全てのことには意味がある?人生の全てにYESと言う?』

受動性(自然生物的存在)に何らかの先験(原因・根拠)的な意味を見出す人は決定論に陥り易い。逆に能動性(社会形成的存在)に価値を置く人は(自身を含む)環境的要素を単なる偶然、道具として割り切ってしまえる。「人の技(わざ)はいずれはこの世界をも創造するであろう。」 受動性を凌駕する? 言うだけなら何とでも言えてしまう。

偶然⇔必然。非決定⇔決定。相関⇔因果。どちらが正しくどちらが間違っているではなく、その人が選び、その人が決める問題であるというのが正論? ブッダならば両極端を退け、その中道に立つ。現実的な柔軟な対応。生きる智慧。

規則性を有する現象でもそれ自体は単なる機械論的(オートマチック)な連鎖反応であるとも考えられる。しかし受動性とは一見このような無意味・無機質な働きの必然性(偶然的秩序)?を言う。逆に全く何の関連性も見出せないような事柄が、実は共時(シンクロ)する事象であるとも考えられる。テレパシー(思念伝達)とか。遠隔透視とか。観測・測定可能領域外で何らかの繋がりを有しているとしたら正確な分析データをもってしても結論は出せない。科学的な話とは言えないが。そもそも(一説によると)観測・測定可能な領域が宇宙の全質量の僅か4%に過ぎないとも言われる。結局はその人の捉え方・考え方次第ということか。


追記。科学や論理といった価値観(基準)に固執していると却って形而上学的感受性を見失う。それでは(私にとっては)本末転倒。元も子もない。


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