雑記

【無我説】

無我説 → 真我(アートマン)は無い。
非我説 → (五蘊は)真我ではない。(この見解を一般的には無我説という。)

無我説と非我説。一体どちらが正しいのだろうか。結論を先に言ってしまえば論理的な結論は出せない(論証不能)。形而上の問題はそのことごとくが対立矛盾しか生じない(二律背反)。このような思索には基本的に意味が無い。だからこのような問題には無記(捨置)を貫くというのが最も妥当な姿勢ではないかと思う。
「毒矢の喩え」でも言うように、形而上の問題よりも実際の目の前の現実と向き合うことの方が大切だというのが本来の仏教の立場だろう。

(以下省略)


【形而上学の見直し】(06/11/26 up)

頭で考え続ける限り解らない。そんなものなどない? ないのかあるのか、それすらも解らない。結局は何も解らない。
「存在(生)の理由(意味)はない⇔存在(生)の理由(意味)はある」 「死後はない⇔死後はある」 どちらの見解も正しいとも間違っているとも言えない。
どちらの立場を選択するのかは、その人自身の自覚と責任の下で、その人自身が決めればいい。
形而上学は論理的に肯定されるものではないが、また否定されるものでもない。その位の慎重さ・謙虚さをもって接していくもののように思う。

※ 無我説を確定(断定)すると、形而上学に対する配慮、意欲そのものを喪失してしまうようなところがある。逆に無我説(不空)を踏まえない非我説(空)の場合では、その追求に止むところがない。
現実的な考え方(生き方)として、方便として判断すれば、やはり「中道」が望ましいと私個人としては思う。(06/12/10 補足)




人間性の成熟(09/01/08 up)
理屈を磨くことのみで人間が磨かれるとは思えない。身をもって身につける何か。体で体得(体現)していくもの。知性というよりもむしろ感性に近い経験。永きに亘る様々な人生の経験(喜怒哀楽)。そのような経緯を踏まえたところでしか育まれないものに思える。「生きること」に理屈は必要だが、同時に理屈は必要ではない。両方とも大切(中道)。より大いなる何か。理屈の彼方にあるものに思える。


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